生と死について

昔から頻繁に考え続けている「生」と「死」について記録がてら書き綴ることにする。暇があれば是非とも最後まで読んで欲しい。


まずそもそも死について考える意味は生を充実させることにある。死ぬってなんだ。必ず死ぬのになぜ生まれてくる。なんのために生きる。そんな疑問を皆一度は抱いたことがあるのではなかろうか。考えてみるも答えがわからずいつしか考えることをやめる。怖がっても仕方がない。すべての人に等しく死はやってくるのだから。逃げずに考えよう。


生きる目的について
動物には2つの本能がある。「個体維持」という食の欲求と「種族保存」という性の欲求である。私はこれを知った時に1つ引っかかった。三大欲求は性、食の他に睡眠欲があるではないか。本能には睡眠に関わるものはないのかと。私はあると確信している。睡眠というのはどうやら記憶するのに一役買っているらしい。記憶。これが人間の本能に追加できさらに言えば生きる本質につながるのではないか。死ぬ瞬間に個人の中に残るものは「記憶」である。命とは与えられた時間で記憶を集めるゲームだ。時間を感じるためにも記憶が必要であるように命の目的には少なからず記憶があると言えるだろう。仮に、「あなたは今から命尽きるまでこの立方体の中で過ごしてください。」と言われた場合、飲める人はいるだろうか?生きるとは変化だ。変化のない生活を人は本能的に拒む。同じを繰り返し続けると心はすり減っていく。心を失えば機械と同じだ。死んでいる。人は死にたくないから生きるのではない。遺伝子を絶えさせぬために生まれるのではない。これだけが生きる目的なのだとしたらこれほど残酷で悲しいことはなかろう。我々は感動し憤怒し笑いそして一人の人を愛するために生きるのである。大切な友と語り酒を交わし、絵や音楽に涙し瞬間瞬間を心に刻むために生きるのである。記憶は心を交え昇華させる必要がある。情報だけが目的ならば心などいらない。人間である必要がない。心を復興させよう。心こそが人間としての本来の意味だ。そして心が満ち足りた状態を幸せと呼ぶのだ。


「心」とは
頭と心を対比させて考える。頭は考えるもので例えば「桜が咲いているから春だ」と判断する、いわゆる機械のようなものだ。一方、心とは感じるもの。桜の美しさを味わい腹の底から春を実感するものだ。エネルギーの流れのレシーバー。いつしか人は「頭」で考えるようになる。すると次第に「心」で感じていたものが見えなくなる。美しい絵を前にした時、正しいのは美しいというその実感であってその絵が油彩か水彩か、印象派シュルレアリスムかとかそんなことではない。多くを感じ取る心が人間らしさだ。単純な目を、単純な耳を持って世界に君臨したいものだ。心を枯らさないよう感性に水を与え続けよう。


「死」について
死後の世界についてはチベット仏教など多数の宗教でも語られているが正味死後の世界を語れるのは実際に死んだ者だけである。死人は語らない。パラドックスだ。生きている人間が死後の世界を見ることなどどう考えても無理だ。ヒトが紫外線の色を知らぬように死後の世界も知覚することはできない。しかし、我々は技術の進歩により紫外線の存在を知った。想像することだ。死後の世界はある。誰も魂の存在など科学で証明できないが、我々のこのからだには確かに魂があるではないか。ただの分子の塊ではない。You are not a machine.


心を潤してくれるのは音楽、建築、文学、絵画、映画といった芸術と呼ばれるものだけではない。友人の言葉や行動。恋人の表情や初体験。合格発表、不合格発表。失恋。親友の裏切り。愛する者の死。美しい野花。早朝の空気。藍色の空。あの忘れられない一日が、あの忘れられない一瞬が皆それぞれにあるだろう。世界は感動で溢れている。能動的に触れ限りある命に目一杯詰め込もう。密度を濃くしよう。ひどく心を動かされた体験は深く深く刻まれる。たとえそれが地獄の絶望であってもその体験は心の感度を高めてくれる。美しいものがよりわかるようになる。心あるものは生きている。そして自分の命が尽きてもなお与えた心は残された者たちの中で咲き続けるだろう。


愛してやまないこの世界